第一章 引き揚げ収容所からの出発

  • 敗戦日本での生活

日本の景色は満州に比べて箱庭の様にきれいで、満州で想像して居たモノとは程遠いモノだった。

“祖国日本”の‘のんびり’として穏やかな景色は短い期間の佐世保の引揚者収容所での不安を‘安らかに’して呉れた。

佐世保港で佐世保の引揚者収容所に収容された折に、初めて他の上陸用舟艇の引揚者との出会いがあり、日本に帰国できた安堵感を共有出来た中で、其々の満州からの引き揚げ体験や情報交換がにぎやかに交わされた。子供同士の話でも、大人を交えての話も色々な体験談を交えて賑やかだった。

ともあれ、皆はやっとの思いで日本に帰国出来た事の安堵感と感激で何となく饒舌になって居た。

明日は日本の何れかの地にチリジリ・バラバラになる仲間達であり、今更、どんな経験談でも何も隠す事は無かった。

話が弾み、そして、色々と今まで知らなかった事が分かって来た。

また、佐世保からの引き揚げ列車の中でも其の様な雰囲気は続いて居た。

佐世保からの列車が名も知らぬ駅に停車すると、スズナリの乗客の列車からの乗り降りには可成りの時間がかかった。御元気で!達者でね!の挨拶はしたが、また逢おう!と言う言葉は無かった。

停車駅から乗車して来る者の中には我々より可成り早めに帰国して居た人達も居て、彼等からも内地の情報を聞く事が出来た。

汽車がノロノロと次の駅まで向かう時間が長かったので、満州からの引き上げ後の情報について、色々な事柄を知る事となったが、日本に引き揚げて来る時期によって、色々な違いがある事も分かった。

終戦後、満州に取り残された日本人達の引き揚げ順で明らかに違って居た事は終戦後、早くに帰国した人々は大した被害には会わなかったが、それから時期的に遅く引き揚げる度に残酷な経験をする事が多くなった事も分かった。

我々より先に帰国して居た人達と我々と大きく違って居たのは先に帰国出来た人達は戦後の日本の状態を先取りして居たせいか、態度が落ち着いて居る様に思えた。

彼等からの日本の戦中戦後の模様や引揚者に対する無慈悲とも思える言葉、

“多人数の引揚者の為に、日本の国土は狭い上に田畑も少ない国土が荒らされて迷惑だ!”

と言われた話を聞いた時には驚きもしたが、現実、後述をするが、引き揚げた先での日本人の仕打ちには許しがたい差別が待ち受けて居たので、イジメを知り若干の免疫にはなった様にも思える。

確かに、終戦前に敗戦を察知して、日本へ帰国して居た軍関係者や政府関係者は何の弊害も無く帰国出来た事は終戦後、シベリア送りの日本兵からも、要領の良い人間も可成り居た事などは新京で敗戦を迎えた後で知らされては居た。

また、終戦後速やかに日本に引き揚げた人達は匪賊にも出会う事等まったく無く、短期間で戦時中の日本への帰国と同じ状態で色々な被害に会う事無く無事に素早く帰国して居た事も知らされては居た。

しかし、引揚の時期が終戦から時が経つにつれて劣悪になって行った訳である。

「我々より先に帰国して居た人達」の話によれば、

開拓団の人達の後に引き揚げた人達は匪賊に会ったり、中国の毛沢東と蒋介石の内戦、つまり、ジュウケイ軍とパウロ軍との市街戦に巻き込まれたり、日本人だからと言う事だけで酷い暴力に合ったり、略奪に会った事の一部は「夕日沈む彼方へ」の前編で述べた。

新京が関東軍の司令部が有った事が原因で満州の首都としての環境にあった事から、中国の内戦でも曾ての日本の関東軍司令部を占拠し、ジュウケイ軍とパウロ軍の牙城とする為の悲惨な争奪戦が始まり、毛沢東のパウロ軍が新京を制覇し、ソ連軍の撤退が開始され始め、やっと、アメリカ軍の上陸用舟艇を借りて日本に引き揚げが開始され始めた我々の時期以降の引揚者達は開拓団の人達よりも残酷な仕打ちを受けた訳である。

新京での内戦、ソ連軍の撤退の後に引き揚げた人達は敗戦後の満州で中国の内戦、ソ連軍の略奪に会い、日本人最後頃の引き揚げ者は祖国、日本に帰国しても色々なイジメにあった。

そんな過酷な環境での帰国だったので、イジメも気にならない程、酷い仕打ちには慣れていた。

話をノロノロ進む列車の中での我々より先に帰国して居た人達との話に戻す。

終戦後、満州に取り残され日本に帰還出来ずに残留した日本人は

100万人以上と言われ、ソ連軍が日本人の送還に無関心であった為に、残留日本人が引き揚げる順番が遅くなるにつれて劣悪になって行った事などが再確認できた。

 つまり、ソ連軍の本格的な撤退が始まる1946年の3月までは日本への引き揚げは開始されなかった。そして、ソ連軍が撤退し、蒋介石が台湾に去って後に、やっと、アメリカの軍用輸送船を貸し出し

日本人の送還を遅まきながら始めた訳だった。

ようやく5月頃から引き揚げが始まり、新京での引揚の区割りも遅ればせながら始まった訳だった。区割り、つまり、日本に帰国するグループの選別と選定が始まった。

其れからの引き揚げ逃避行が開始された訳で有り、其の模様は「夕日沈む彼方へ」で断片的にではあるが実体験を書いた。

そして、満州からの引き揚げ者の犠牲者は約25万人にのぼり

そのうちの約10万人が満蒙開拓団の人達だった。従って、満州の民間人犠牲者は東京大空襲や広島と長崎の原爆投下犠牲者数および

沖縄戦の犠牲者をも凌ぐとも言われて居る事を知らされた。

佐世保からの引き揚げ列車の中で戦中戦後の満州と内地での色々な変遷を聞く事が出来た事は此れから始まる帰国生活への基礎になった様に思う。

やがて、名も知らぬ田舎の駅に下車をした。

駅の周囲には駅舎だけが目立った木造の建物で、砂利道を挟んで何軒かの平屋の建物があった。バス停の立て看板が不安定に立って居た。バスは一日に何本かが通るみたいだが時刻表は形だけで定時にはバスは来ない様だった。

でも、こんな平和其の物の田舎の風景に囲まれると、やはり、やっと日本の地に上陸出来た事への興奮と安らぎが有ったのだと思う。

やっとバスが来た。

木炭バスだった。凸凹道を走って来た木炭バスについても「夕日沈む彼方へ」で紹介して居るが、後に小学生の職業の中で男子はバスの運転手女子はバスの車掌さんが人気だった。

 兎に角、バスに乗って父親の故郷に向った。

満州から引き揚げて来てからの暮らしについて、まず、何から話してよいのか、見当が付かない。

日本に帰る事だけを目的として引き揚げて来た。

終戦後、満州では中国の毛沢東と蒋介石の内戦中に巻き込まれ、彼等の死体の山を流れ弾の飛び交う中で生活し、ソ連軍の侵攻による兵隊の略奪にも会い、生きているのが不思議だった。

また、日本に引き揚げが決まったのも遅い方だったので、引揚ルートには“カモ”が來るのを、匪賊がたむろして待ち構えていた。男達はシベリア送りとなって、男の居ない婦女子だけの集団が無防備に移動し、身ぐるみはがれ、強姦に会うのが日常茶飯事だった中を、やっとの思いでたどり着いた日本だった。

つまり、無事に帰国出来る等想像もして居なかった。

いざ、日本に上陸しても無事に日本に引き揚げて来た事、其のものが信じられずに居た。全てが夢心地だった。

満州で死ぬはずの命が日本で生きている。それだけで良かった。

しかし、日本に無事に上陸出来ると、拾った当時の悪夢が蘇っては消えた。

因みに、佐世保引揚援護局が廃止されたのは昭和25年 だった。これ以降、舞鶴が 唯一の引揚港となり、昭和33年まで続いた。 引揚の舞台となった地は今やハウステンボスとなって居り、軍港や引き揚げ港だった面影はない。

引揚者、復員兵を受け入れる窓口となった ことにより、佐世保が139万人という帰還者(引揚者と復員兵)を受け入れた面影は無い。

 話を上陸後の話に戻す。

引き揚げて来て経験させられた引揚者に対する日本人の仕打ちには多種多様あった。どの様な観点から其れを俯瞰するのか分からないが、小学校生活での出来事を中心に思い出して見たい。

引き揚げて来た処は父親の里で、其処は半農半漁の村だった。

白砂に松林、其の背景には緑の山が聳え、まさに、白砂斉唱、日本の原風景其の物だった。祖父は農家でも無く、漁師でも無く、文人墨客の暮らしをして居た。

村人達からは尊敬されて居たが、先祖が立花藩の馬廻役(うままわり)の下級武士だったとかで、尋常小学校の教員をして居たが、校長の依頼を受けたが、其れを断って、所謂、隠遁生活をしていたらしい。

従って、田地田畑は全く無く、傾きかけた藁葺屋根での生活とはなった。満州ではペチカやスチームの通った鉄筋コンクリート造りの家での生活だったので其のギャップに驚いた。

勿論、田畑など無く、農家や漁師の家族がうらやましくなった。