第四章 小学校生活(その3)
百姓の子達は当時の食生活は戦中よりもマシだと思って居る様に思えた。規模の小さな村での百姓の生活は農地改革で自作農化し庄屋は無くなり其々が均等に農地を持ち徐々に希望を持つ様になって居る様だった。
しかし、敗戦後の食料難の時代だったので、その地区毎に平均化していた訳では無く、昔の庄屋様と小作農との間には、まだまだ格差があった様だった。
ともあれ、米や麦等の穀類を始め統制はされて居てもヤミ米等として売り買いする為のルートを得る為に、農地改革前のシステムを踏襲している面もあった。
小学校の生徒の態度を見れば一目瞭然だった。親が庄屋だった子供の態度は小作農家の子供を見下して居り、親の態度が其のまま子供の世界にも露骨に影響して居た。所謂、庄屋様が可成りの間、君臨して居た様だ。
一方、漁師の方は大型漁船を持って居る親方の下で船団を整え季節・季節の魚貝類を獲る場合も有り、個々の漁業も漁師仲間で適宜に区分けされて居た。
つまり、百姓の庄屋と小作農の様なギクシャクした関係では無く昔からの親方制度が保たれて居り、当時、船の大小で差別する様な事は無かった。
むしろ、近年になってある時期、船は大型化し
高速化し、レーダーでの漁法に替わってからの差別化の方が危惧される。300mの深さのヒラスから海面近くのブリの魚影がレーダーで探知され網で根こそぎ捕獲される。イカにしても集魚灯で集めて網ですくい取ってしまう。我先に漁場に向かい漁をしなければならぬので高速船で漁場に向う。
少なくとも、小学校時代は思いもしなかった事が収穫の格差を生み、乱獲に至る事など予測もしてなかったし、自然破壊の無い‘ゆったり’と、した時代だった。
農家でも漁師でも無い、引揚者にとっては「無事に帰国は出来たけれど、イモ食う事も出来ぬ毎日」だった。
しかし、あの運よく命拾いして何事にも立ち向かい、必死に生き延びて来た“がまん魂と精神”は衰えては居なかった。
“こんな事で負けてたまるか!”と、腹を据えて考え、常に、行動に移した。
野菜は無いが、野草の“のびる・ぎしぎし・セリ”松林の中の松露、
実のなるものは“槇の木の実・桑の実・野イチゴ”と季節ごとに農家では栽培もしない植物類を何でも食べた。
‘おくどさん’も赤土で作り鍋や釜をのせて松葉掻きで松葉を松林から集めて荒縄で括り、2~3束にして背負い家まで運び、火は薄いベニヤ板もどきの板に硫黄を直接塗ったマッチで松葉に火を付けた。
西部劇でタバコを吸う時に靴底で摺って火を付けるシーンを思い出して貰えば、想像できると思うがチョットした摩擦で発火する黄燐が塗ってあるマッチだから、危険極まりない火付け作業の筈だがそんな事を当時、知る由も無い訳で、今にして思えば、せめて赤燐の安全マッチが欲しかった。
松露は現在、何処の浜辺の松林にも無い幻の存在となって居るが
当時は腹を満たすための食糧として採取した。何時しか、松露取りの名人になって居た。
山の中に分け入って行くと嵩高い雑木林の中に突然、青空が見え白い雲が映っている直径10m程のまん丸い池に出会った事があった。其処には綺麗なセリが沢山生えて居た。まるで、人間が植えた様にセリが植わって居た。誰も知らない秘密の場所の一つだった。素晴らしい環境の中には必ず危険がいっぱいあるはずで、マムシがたむろして居た。
今、その場所が何処だったのか不明になってしまったが、セリの時期になると一人で出掛けて家族の空腹を満たした。松露も今は高級食材の一つで高級料亭でしか味わえないが、松露は採取した当日に炒って食べた、保管は出来ず、2~3日でベトベトになった。
話は70年程、経った今に飛ぶが、
佐賀大学の客員教授だった時に、佐賀大学の全ての研究施設の見学を提案し、そして訪問をし、其の研究成果を知る為に客員教授達で1日をかけて意見交換の為に訪問した事があった。
近年の産学官連携による地域活性化に繋がるテーマが横行し始める先駆けの様な時期ではあった。
海洋エネルギー・シンクロトロン・低平地沿岸海域等々の研究所並びに研究施設・・・を訪問し、最後に唐津にある佐賀大学海浜台地生物環境研究センターに出向いた折に松露と出会った。
当時の海浜台地生物環境研究センターでは特に、唐津の大陸棚的な立地を活用した海産物のエキスから健康・美容に関するクリーム状の軟膏の試作結果についての企業との共同研究について、スライドで説明して呉れたが、質疑応答に移った時、なんの質疑も無かったので、唐津の松原に松露は有るのか、唐津の松露饅頭は有名だが?と、質問をしたが侮蔑された様だった。
海浜台地生物環境研究センターは研究施設としての最終訪問であり、時間も午後4時半を過ぎて居た。訪問の御礼を述べて、帰り始めて居た時に、「鳥井先生、私は後1年で定年です。先程、松露の事をお尋ねでしたが、此れが松露の凍結乾燥したサンプルです」と遠慮深そうに小声で話された。
「有り難う御座います、貴重なモノをお見せいただき感謝します」
と申し上げたが、そのサンプルは実際の松露とは似ても似つかぬ程、経年劣化して居た。
「虹ノ松原には昔、沢山の松露が有りましたが其の後、松葉が積り、松露が出来る砂浜的な環境が無くなり、松葉が30cm近く腐葉土として積み重なり、松露の菌も死滅してしまった様です。私は松茸の人口栽培より松露の復活は確実だと説得をしましたが、新しい時代の波には竿を刺せませんでした」と寂しそうに言われた。
「温故知新とは良く言われる喩えですが、利益重視の産学連携は道を踏み外して居ると思います。間も無く、遺伝子組み換えによる弊害も出る事でしょうが、日本古来の種の保存の必要性が大事になる事が理解して貰わないと、強い外来種から身を守れなくなるのでしょうね。先生は松露の復活と共に自然保護の立場で対応されて居られますが、今後は如何されますか?」と問うと、直ぐに答えが返って来た。
「今、近くの小学校の先生と相談して、定年後は小学生と自然の大切さを一緒に知る事を考えて居ります。現に、子供達と利益や欲得では無い、純粋に自然を取り戻す事の大切さを、コウノトリの絶滅から復活についての話をして居ります。今日は先生と御会い出来て良かったです」と言われ、素晴らしい教授だなと思った。
月並みだが
「頑張って下さい」と言って頭を下げた。
先生は途中で振り返るとまだ、一人で立って見送って下さって居た。
食糧難の戦後の時代から、可成りタイムスリップしてしまったっが、野草の“のびる・ぎしぎし・セリ”や“槇の木の実・桑の実・野イチゴ”を例に挙げたが、海藻の“ワカメ・ミル・カジメ・ヒジキ”や“アワビ・サザエ・岩ガキ・牛のツメ”etc.の有る場所は山の中と
同様に、秘密の場所を次々と確保して行った。
自然が一杯で嵐の後の海岸には薪になる木や枝が打ち上げられて、其れを拾い薪に使った。
漁師の子供だった国広君と勝男君は引揚者とはどんな生活をするのかが分かって来て、私が海や山や川から食料と思われるモノを獲って来て家族の為に食料にして居る事が分かり、海での色々なアドバイスをして呉れた。実際、其の知識が無かったらサメに食われていただろうし、潮の満ち引きで波の立ち方、潮の流れが海面近くと深さ2m近くで潮の流れの方向が逆になる事、大潮・中潮・小潮で潮の流れだけでは無く渦潮が発生する場所、春・夏・秋・冬で大潮の時でも干満の差が違う事等々教えて呉れた。
実際にフカ浜で毎日、潮流の変化で浜辺の形が変化する事を知って居ながら、その日は足首位までの深さだったのでその先に出来た砂浜の山に渡り釣りをして居たが、大型のキスゴが次から次に釣れて、破れた買い物籠を魚籠として腰に縛り付けて居たが、其れが魚で一杯になって居た。ところが、釣りに夢中になり潮が満ちて来る事を忘れてしまい
振り返って浜の方を見ると深さが足首どころか腰までの深さになって居た。そして、歩きはじめると浅かった所に潮が渦を巻いて流れて居り、アッと言う間に足をすくわれて流され、沖の方に向って流され始めた。腰に縛り付けて居た釣った魚を入れた魚籠で、身動きが出来ない状態になって居た。潮の流れの速さの恐ろしさを始めて経験した。もがけば、もがく程身動き出来なくなっていった。其の時、国広君からの忠告が頭をよぎった。
【慌てるな、腹を上にして空を見上げて浮かんで居ろ、潮の流れが変わって陸に向ったら全力で近くのモノに飛びつけ!】を思い出した。フカ浜から潮に流されて岬の岩場の近くに流されるのにはアッと言う間の時間だった。空を見て浮かんで居た間に魚で一杯になって居た魚籠を腰の紐から外し岩場に流れる潮流に身を任せた。運良く牡蠣殻が付いた岩の傍に来たので、全力で泳ぎ海藻の付いた場所に飛び付いて岩の上に必死にしがみ付いた。牡蠣殻で腹のあたりに怪我をして血だらけになって居たが助かった。海での傷は治りが早いと言うが、確かに、家に帰りつくまでにヨモギの葉を傷口に刷り込んだら、1週間くらいで化膿もせずに一応は治った。治って来ると
釣ったキスゴを逃がした事がたまらなく情けなくなった。
アレだけの量だったら塩茹して、天日干しにすれば可成りの間の食糧になったのにとの残念な思いが長い間続いた。魚の釣り糸や針を始め、餌の取り方も国広君からの伝授だった。砂浜に嵐の後、藻が打ち上げられると其の藻が1週間位その位置を動かなかったら、海のミミヅの様な藻虫が住み込みキスゴの餌になった。その他にも岩虫の磯で大潮の時取って、乾燥岩虫にして保存して魚の餌にする事など色々と教えて呉れた。
其の国広君も私が久留米高専で「九州沖縄地区高専フォーラム」や「高専シンポジュウム」を創設した折に、多忙で訪ねなかった時期が有り、久し振りに尋ねた時に奥さんから【主人は胃癌で鳥井君に会いたいな、会いたいな】と言いつつ死んで行ったと時かされて愕然とした。昔に戻りたいと願っても、届かぬ願いだった。