第六章 小学校生活(その5 シゴキとイビリ)
配給通帳は手に入ったが、食料の配達通知が来ても今で言う窒素肥料の大豆カス、つまり、油粕だったり、芋の配給では大きい芋だったが、水っぽくて何処の産地のモノか分からなかった。
穀類の配給は全くと言うほど無く、忘れた頃に通知が来た。其の後、1年程経ってから、やっと、麦が配給された。芋にしても、麦にしても近所の農家で収穫した品種とは全く異なった劣悪のモノだったが、兎に角、我が儘は云えなかった。
実は、未だ具体的には触れることは出来ないと考えては居るが、後々、触れざるを得ない事になると思う事柄がある。
此の間取りの家の中に、四人の子供が既に、祖母と祖父と共に住んで居た。其れは親父の姉の子供達で、その姉は戦後、進駐軍の通訳をして居たが進駐軍のジープ事故で亡くなったとの事で、其の子供達四人が祖父母と同居して居た。
其処に我々家族が満州から引き揚げて暮らす事になった訳である。つまり、祖父母と親父の姉の子供4人、其れに、我々の家族父母と兄弟3人が同居する事になった訳で、既に、述べた間取りの家での生活は狭い環境の中での暮らしの始まりだった。
何れ話す事象も有るとは思うが、彼等4人の個々については彼等の為にも触れるべきでは無いと考えて居る。簡単に触れると、私と同年の姉の下に妹と幼い弟が2人で4人兄弟だった。所謂、間接的ではあるが、戦争による可哀想な孤児だった。彼等は運良く祖父の文人墨客の友人の紹介で立派な所に養子に行って暮らして居る。
時に、私は祖父から、固い約束をさせられた。
「お前は、鳥井家の長男だ、2人の姉妹と2人の幼い兄弟の養子先は絶対に他言する事はならん、此れは固い約束事だぞ、養子先の親との約束だ。彼等は鳥井の姓は名乗らないし、特に、幼い2人の男の子は養子先で後を継ぐ条件での養子だから、終生、この約束は守って欲しい。弟達は未だ幼いから分からないと思うので、長男のお前に話して居るのだ。村人から、両親の居ない孤児として‘可哀想’
と思われて同情され、お前達兄弟は両親健在と言う事で、イジメられるかも知れないが、お前は長男として、噂の盾になってやって欲しい、頼むぞ」と、長男である小学三年生の私に言われて居た。
しかし、姉妹の姉とは同級生で妹は1歳下だったので、一時期、同じ小学校で過ごした事もあり、村人は‘親の無い子’孤児と‘両親の揃った子’として、‘親の無い子’に凄く同情が集まり、一時は私に対する風当たりは大変なものだった。
村には青年団があった。
其の当時の青年団から両親の揃った私が四人のテテナシ子をイジメて居るとの噂を信じて呼び出されて、殴られる羽目にまでエスカレートして憎まれた事もあった。
確かに、両親が揃って居る私がイジメて居る事が事実である様な噂が流れて居た。其の様な事は無くとも噂とは面白おかしく広がるものだと思った。其れは満州でのデマと同じだった。
当時、私も彼等の事はとても可哀想に思って居たし、祖父からも言われて居たので、早朝からの炊事や薪割りの手伝いは一手に引き受けて居て可哀想な四人の兄弟に手伝はせる事は無かった。
学校でも、先生によっては私が彼等をイジメて、居ると決込み、思い込んで、辛く当たって来る先生も複数居た。
引き揚げて来てからの父親と母親は一日中、食料の買い出しに出掛けて居て足の悪い親父は家族十一人(爺ちゃん祖母ちゃん・姉の子供4人と私の家族弟2人を含めて合計11人分)の食糧を朝から買いに出掛けて夕方、クタクタになって帰宅した。
食料と言っても芋を別の地域の百姓から買う為の買い出しで、近所の農家からは分けて貰えなかった。
両親が居ない家族にと言う事で近所の百姓からは「此れはアンタ達に恵むのでは無いよ、お祖母ちゃんと御爺ちゃんとテテナシ子にあげるので、アンタ達の分は無いよ」と言って条件付きで芋を分けて呉れて居た。
其の事は弟達には可哀想だとは思ったが、それだけで両親が買い出しに出掛ける人数分が少なくて済むので有難かった。
弟達にも我慢をさせた。
しかし、其んな、理不尽な仕打ちを許せる程、私は人間が出来ているでもなかったっが祖父との約束でも有り鳥井家の長男でも有るとの自覚を持たされて居たので感情をコントロールして居たが、理性的に振る舞う事には所詮、無理があった。
そして、村の人間がテテナシ子をイジメて居るとの噂を流して居る事に、腹が立って居た。
デマの流れる現象は満州で敗戦後、嫌と言うほど経験しては居たが、
まさか、引揚先の日本で体験するとは思わなかったが、爺さんからの頼みも有り、耐えに耐えて居た。
ある日、青年団の一人から
「お前、従妹の娘と一緒に寝とろうが、良かことしよんネー、どスケベが!」と言われて
一気に切れてしまった。
「オンドリャー、ナニヌカシトルンカー こんバカたれがー」と言って殴りかかって行った。
青年もまさかこんなチビが向ってくるとは思いもしなかったみたいで、不意を突かれて一瞬、タジロイダが彼もからかい半分が本気になって、殴る蹴るの取っ組み合いとなってしまった様子だと思うが、腕力は物凄い差があったにも関わらず、彼等の感情に任せて殴る蹴るが続いた。
暫くすると、口から血が出て鼻血で顔中がべとついて居た事に気が付いたが、青年も其れに気が付き手を緩めた。しかし、私は執拗に殴りかかって行った。
彼等もたじろぎ出して、逃げ腰になって行ったがチビの少年が身の丈三倍もある青年に歯向かって行くわけだから、最後には気味が悪くなって何人かが逃げ出した。
「逃げるトナ、まだ、決着はついて居らんバイ」と言うと、
「・・・・」と肩で息をして居た一人が「俺らが悪かった、噂でお前がテテナシ子をイジメとると言う噂を信じて、お前バ、カラかい半分でナぶった事が分かった。大の大人がする事じゃなかった」と息をきらせて言った。
「俺も満州から引き揚げて来た敗戦引揚者バッテン、色々言われても我慢しとったとバイ、此れより酷い暴行を満州で受け取ったケン、コン位の事でへこたれんバイ、しかし、アンタ達も背の低いコマカ子供に向って本気で遠慮容赦なくやってくれたナ、この仇は逃げクサッタ奴にも必ず仕返しに行くからナ」と言い放つた。
「お前達、みたいな弱い者いじめをする奴が居たから日本は負けったっタイ」と続けた。
「アンタ等、ドン百姓や、漁師や、どっちや、青年団のごとあるバッテンが」と言うと、「悪かった、お前がテテナシ子をイジメて居ると聞いとったケン、説教のつもりが馬鹿にしたカラカイになってシモウテすまんかった」と言って呉れた。
其の後、お互いに落ち着いて話が出来る状態になって、満州での事、満州から引き揚げて親父の里に帰って来てからの話を掻い摘ん青年にむかって語った。
余りのしつこさに、気味悪がって逃げて行った青年団の仲間も戻って来て耳を傾けて呉れて「俺たちも、死んだ仲間をほったらかして帰って来たと思われて居るので、年甲斐もなくグレとった」とボソッと呟いた。
戦地の部隊から引き揚げて来た者は居らず、暗黙の内に陸軍か海軍か、そして、階級も言わなかったが復員兵は居らず、殆どが内地勤務の兵隊経験者だった。後に、この喧嘩が縁で交際する様になった中で色々な事を話して呉れる間柄となった。
当時、青年団は男で組織されて居り、青年団の主な役目は消防団に入る事だった。
当時、若い女性は農業と漁業の青年の何方かを選ぶとなると、百姓の青年を選ぶ様だった。
私が百姓の仕事や漁師の仕事の手伝いをさせられる様になって其れが分かった。仕事の手伝については百姓の場合は其々の農家毎に色々と経験を積むと結構役に立った見たいだが、簡単な農家の手伝いでも農家ごとのしきたりがあり、田植えの手伝いや、牛による田スキでもその流儀が各農家毎に微妙に異なって居た。
例えば、寒い朝、早くから麦踏をする場合でも麦の種類によって異なって居る事は理解できるが、田植えにしても、稲刈りにしても各農家で微妙に違いがあり、其の流儀を習得し無くてはならず、働き手と認められるまでには可成り理不尽なイジメにも有った。
其の点、漁師の手伝いは親方の指令で動いて居る事も有って親分・子分の所謂、縦の社会だったから、下っ端を指導するのは慣れていおり、先ず、手本を見せて指導して呉れて、後は自分でやらせて、失敗をすると指導を再度して呉れて、後は責任をもって任せて呉れた。 何れにしても、当時、百姓は穀類やイモ類の栽培に異常な誇りを持ち、食い物は百姓無しでは駄目だとの妙に自信過剰な時代だったので、人間的にも嫌いになって居た。
青年団達とのケンカについてはお互いに、暗黙の内に話さない事にして居たが、時が経つと学校にも知られる事となり、変に、私の立場が理解され、見直される場面も出来たが、其れを期に漁師の人達との繋がりが深くなり、漁の手伝いをさせられる事が多くなって行った。