序 引き揚げ当時の敗戦国日本

満州での戦後については「夕日沈む彼方へ」で、当時の記憶に残って居る事を思い出しつつ書いた。

其の後、満州や朝鮮からの引き揚げについては多くの体験談が執筆されて居る。

其の中には体験談と共に其の背景に有った歴史的な事件や当時の政治や経済情勢をも背景にして、何時何処で何があったのかと言った、事実も添えての詳しい内容の体験談も多く出て居る。

しかし、私は満州での敗戦後の生活を体験談として、当時の子供の眼で見た事実だけを「夕日沈む彼方へ」で書いた。

従って、何時何処での時間と場所は断片的にしか記憶にない。勿論、史実にのっとり、書く事も必要な事は分かっては居るが、当時、何処で何があったのかを精査し記録する事の大切さは分かるが、私にはそんな大それた才能は全く無い。

従って、「夕日沈む彼方へ」の続編として引き揚げて来た日本の片隅での生活の記憶をたどって書いて見る事とした。

今や日本は戦後75年を迎えようとしている。

その間、第二次世界大戦による原爆・沖縄戦・国内の数々の爆撃の惨状、そして、外国でも東南アジア諸国を始めとして悲惨な戦争体験をされた民間の方々が多く居られた。
 しかし、余りの壮絶で悲惨な場面を思い出す辛さや自分だけが生き残ったと言う負い目から戦争の真実を語らないまま亡くなられた。また、神風特攻隊や人間魚雷回天の生き残りの方々には聞いても、黙して語らず亡くなって行かれた。
其の為に戦争当時の理不尽な国民への国の強権政治の有り方や陸海空軍の兵士に対する国の為に殉死する事の無慈悲さや残酷さが忘れられて来ている。確かに、悲惨な思いと生き残った慙愧の念を語る事無く、忘れる事が最も相応しく、当り前であって当然だとも思う。一方で、其の思いは戦後75年が経過した今、戦火の中で死んで行った人々の悲惨さを経験し、反省の中で暮して居る人達が毎年、毎年少なくなっている。
そして、今、世界規模で無謀な戦争に突入した事を正当化し、ファッショ的な思想が復活しつつある事象が多くなって来た様に思えてならない。

曾て、私程度の戦争体験者は可なり居られたが、今は少なくなっている事に改めて気付かされた。
私は何時の間にか、満州の戦前戦後の事を話す、‘語り部的’ な存在になって居る様である。

今さらながら、戦後を振り返り“ある種” 平和の有難さを深く、強く感謝する日本でなくてはならないと言う時期に来ていると思う。

満州での、戦後の中国の内戦やソ連軍の侵攻で、犠牲者になられた多くの方々の無念さや怒りを述べるには当時幼い小学生であった私の体験談など迫力に欠け、無意味だと指摘されるかもしれない。
また、子供の眼を通して感情を込めず事実を述べるだけなので、今の平和な日本での暮らしに満足した人達には物足りないかもしれない。
 今も世界中の何処かで、中近東やアフリカでの内戦下で同じ様な無残な戦火が広がって居る。

その要因は様々だとは思うが、一つに、歴史的な宗教戦争の延長線上と思われる惨状も多い。キリストであれ、イスラムであれ、多宗教下の現在は新興宗教も含めて神の下では平等で有るはずであるにも拘らず、人間のエゴの為に宗教が政治に、そして、戦争への橋渡しをして居る現状も有ると思うし、独裁者のエゴの為の争いの中に縁もゆかりも無い人々が巻き込まれて居る。

今、戦火に巻き込まれて居る子供達もそれぞれ事象は異なるにしろ私と同じ悲しい経験をしている事も現実である。

政教分離を唱えても、今や、誠に残念ではあるが、人間は己の利益の為に信仰(宗教)を利用する時代になっている。

今から書こうとして居る事は戦後、満州から引き揚げて来た当時の事について書く訳であるが、国民学校の看板が小学校に替えられた当時の敗戦日本の様を当時の子供の目を通して其の断片を書く事とする。

話は、引き揚げて来た当時からは離れるが、引き揚げて来た子供が歩んだ道のりの其の後の一つを、触れて置きたい。

其れは、引き揚げて来て、小学校・中学校へと進学し、時はながれ、高校に入学し、家も無く財産も無い引揚者の子供の選んだ道は大学では無く、日本で最初のジェットパイロット幹部候補生への志願だった。

大学では学費が必要だが航空自衛隊のジェットパイロット幹部候補生であれば、官費ではあるし当時、日本のジェットパイロットは居らず、後に、民間のパイロットへの道へ進み苦労を掛けた両親にも迷惑を掛けないで済むと思い、勉学にも励んだ。

結果は23倍の学科試験はパスしたが、視力検査で不合格となってしまった。私が航空自衛隊のジェットパイロット幹部候補生に応募すると知って、当時の高校の世界史の先生から職員室に何度も呼び出され、軍隊と言うところはとんでも無いところで有る事を、御自分の経験を交えて話して呉れて、思いと留まる様にと、何度も自分の息子の様に説得して頂いた。

結果、試験に合格したが身体検査で不合格と分かった時の世界史の先生が涙を流して「よかった、安心した」と真剣に肩を叩いて呉れた事の真の意味を後年になって知る事となり、有難くも有り、大変御世話をお掛けしたものだと悟った。

月日の流れる様は早いもので、其の後、私は九大の生産科学研究所を経て、久留米高専に赴任する事となった訳だが、高等学校時代の、世界史の先生の様に生徒の為に真剣に悩む信念にまでには至って居ない。

軍隊生活を経験した人との戦後を話す時、大きな差が有る事は分かっては居るが、敗戦後の満州の模様は「夕日沈む彼方へ」で触れた通りであるが、引き上げ直後の日本の様子も異常だった。

「夕日沈む彼方へ」で触れた事の中で、父親程も歳の離れた二十歳ぐらいの青年将校が、国民学校の校門前での兵隊さんへの鉄拳制裁、憲兵に対して異常な恐怖感を植え付けた軍事教練、学校では校長先生より腰に軍刀をさげ白い絹手袋をし、皮の長靴を麗々しく履いた陸軍将校が、訳も無く、朝礼の挨拶などをして威張っていた。

「気をつけ」の号令で全員直立不動とし「国旗掲揚」進軍ラッパが鳴りわたり「宮城にむかって最敬礼」腰を直角にして暫し不動の姿勢、陸軍将校は台の上からにらみをきかせている様は子供心にも、天皇陛下までも自分の偉さを示すための手段として使って居る様に思った。

学校内の何処であろうとも、先生が何かの折に「天皇陛下」と言うと、即座に直立不動の姿勢にならねばならず、少しでも動作が遅れたり、ぐらついても、鉄拳が飛んで来た。それでも、満足しなかったら「股を開け!手をうしろに回せ!歯を食いしばれ!」で、往復ビンタが飛んで来た。国民学校の2年生で有ろうと学年には関係がなかった。

先生達は将校の言う通りに従った。子供の目から見ても明らかに軍事教練の将校にはペコペコしていた癖に、八つ当たり的に教室に入ると生徒達に憲兵の様な態度を取った訳で、ヒステリックな状態は突発的に起こった。

授業は軍歌ばかりを歌わせ、作文は戦争で日本軍が勝利する作文を如何に上手に表現するかで成績を付けた。

詳しくは「夕日沈む彼方へ」で書いたが、彼等は日本が負けたと分かった時点で学校には出て来ず、一目散に日本に逃げ返って居た事がシベリアに抑留される兵隊さん達の話で敗戦後分かった。

憲兵も軍部の上層部も日本の敗戦を予知して日本に、一早く、逃げ返った事は終戦後、毛沢東と蒋介石の内戦、所謂、パウロ軍とジュウケイ軍に所属していた、曾ての日本兵からも聞かされた。

日本が負けて5等国となり中国が1等国に逆転しても、大人の世界では大きな変化が有ったが、子供同士はしばらくの対立は有ったが、直ぐに、終戦前と同じ状態の友達に戻った。

結果、中国人の友達からの色々な情報で、日本の大人達は危ない事に遭遇しなくて済んだ事が多かった。

戦後2年を経ての引き揚げは、引揚途中にも、帰国してからも色々と体験させられた。

敗戦国日本の港にて

夢にまで見た祖国日本に帰国したものの、満州からの数百人の引き揚げ者を乗船させたままの引揚船は佐世保港に係留されたままで、なかなか上陸は出来なった。

其の引揚船である上陸用舟艇は写真の様な不格好な形で、船首は四角な二枚の大きな扉で、白波を蹴って進む船の形とは程遠いもので大きな四角の塊がザワザワと動く様は四角な柱が動く様なもので

大きな波が来れば浪を切るのではなく波に乗っかるので、海が荒

佐世保港・浦頭引揚記念資料館- (2015/06/02) の記事画像より

れた時などは波を跨ぐ形になるので、大波が舳先にあたると、そのまま船は波に持ち上げられて波が船底を通り過ぎるのが良く分かった。鉄製の大型船なのに軋んだ不気味な音が船内に響いた。嵐の時は乗船して居た引揚者だけでは無く、船員もゲーゲー吐いて苦しんだ。上陸用舟艇だから二枚の扉が開いて、其処から戦車等が上陸する訳で、不格好な形だったが、思えばこの船も軋みながら何回、大陸と日本を行き来したのだろう。

其れを思うと、船の悲鳴に聞こえた。頑張った挙句の悲鳴に違いなかった。

同型の引揚船の上陸用舟艇は可成りの数が佐世保湾に係留されて居た。其れは佐世保港に取り敢えず入港しても、上陸許可が下りない限り身動き出来ない訳で、皆は、祖国日本に着いたと安堵し、感激し、歓喜の涙さえ流した引揚の夢は、段々と、敗戦日本の姿の現実を知らされ、認識させられると、日本の敗戦の序曲に過ぎなかったのである。

戦争に負けて占領軍の指揮下に入った日本の定めでは有ったが、改めて、敗戦日本のだらしなさを痛感させられる第一歩だった。

皆は帰国したのは日本の地では無く、アメリカ軍によって占領された領土への帰国だと、言う事を忘れて居た様だった。

死を覚悟した満州からの祖国日本に帰国した訳では無く、占領された日本と言う名の地への逃避行に過ぎなかったわけである。日本国の佐世保に着岸した訳では無い占領された名ばかりの日本に着いた現実に気が付き始めた。

何故か、船員は全員日本人だった。佐世保に上陸してからの情報を聞くのは船員からだった。

船内の噂では、先ず、コレラ菌の保菌者が無いと分かってから、ボートで桟橋までグループ毎に運ばれ、着岸したら全員、頭から襟首を通して身体全身にDDTを噴霧され、波止場に渡らされ、引揚者収容所に連行されるとの事だった。

船員も余り詳しく云うと船長から怒られるのでと、言いながら、断片的にでは有ったが、何故か子供の私には優しく話して呉れた。

何時も航海中は船の舳先にしゃがんで、一日中海を見つめて居たので、船員が海の事について色々と教えて呉れた。そして、何時の間にか其れが私の日課になって居た。

佐世保の引き揚げ者収容所はとても汚い建物だとの事だった。

「なんで?」

と尋ねると、

「終戦後に早く引き揚げて来た人達が収容所を何年かにわたって使用して居た訳だから時間が経つと段々汚くなり、今は戦後ほゞ2年も経ってからの引き揚げだから、日本も占領されて進駐軍が見張って居るし、上陸しても満州からの引揚者に対しては日本人も冷たいし、アメリカ軍も人間扱いはして呉れなくて捕虜に対する扱いだから冷たいよ」と、突き放すように言った。

「満州では死ぬ目に何度もあって、引揚の時も匪賊に襲われ、日本には無事に帰国出来ないと決めて居たけど、祖国日本に着けば、

安心だと思って居たけど、戦争に負けると日本内地でも大変だね。でも、船員さんは良いな、アメリカの上陸用舟艇であっても、海の航海は嵐の時は大変だけど、引揚者を上陸させれば皆から感謝され、海の男と慕われて」と言うと、

「俺にも弟が居たが死んでしまった」

後の会話は其処で途切れた。

当時は敗戦で、あらゆる処から引き揚げて来た引揚者は日本に帰国しても引揚先の県や村に至るまで空襲でどの様になって居るのか、其の模様は全く知らされて居らず、日本に居ると信じている肉親の状況など全く知らされても居なかった。つまり、帰国先の状況が分からぬ人々が色々な思いで、船内に散らばって居る訳だった。

内地に肉親が無事に居ると信じて居る人達は不安な中にもかすかな希望を持って居た様子だが、そうで無い人達は引揚者が多くなる事で自分達の生活が侵されると危惧をされて居る身になって居る事に可成りの怯えを感じていた。

つまり、上陸しても引揚者に対しての差別に会い、敗戦国日本の理不尽さを経験させられる結果となる覚悟を持つ事が必要だと、段々と分かって来だした。

ともあれ、日本の地、佐世保港に着いた時は直ぐに上陸できるものと決めて居たのに、コレラ保菌者の有無を検査される為に1ヵ月間係留されたままの状態で佐世保湾の島々を眺める日々が続いた。

島影から伝馬船を漕ぎながら漁師が時々見え隠れしながら漁をして居る姿を見る事はあったが、大型の引揚船の傍に来る事は無く、素早く、島影に隠れた。

多分、引揚船には近づかない様な指令が出て居たのだと思う。

引揚船の係留期間が長くなると無事に日本に着いたのだと言う感激も薄くなり何時上陸出来るのかで皆イライラして居た。

特に、大人の方が精神的なダメージが大きい様だった。そして、今の情報を全く得る事が出来ない辛さが、日々増幅して行った。

つまり、満州の地での引き揚げの行程で汽車が止められ、匪賊の襲来に会った時も、どの地点で遭遇したとの凡その見当が付いて居た頃は不安の中にも警戒心を持って行動して居た訳で、其れが闇雲に港に向うリーダーの全く居ない婦女子供だけの群れが、ただ日本に帰るために夜も昼も当てもなく歩き詰めで、とどのつまりには匪賊も、盗品になる物も持って居ない一文無しの疲れ果てた集団には手出しもしなくなった程、身も心もボロボロになって、ほゞ,偶然、奇跡的に港にたどり着いた訳で、此の上陸用舟艇に乗って居る人々は日本に帰る事だけが目的の全てになって居た。

つまり、帰国さえ出来ればとの、期待と思いが異常に先行して居り、日本に帰りつけば、兎に角、日本に帰りつけば何とかなるとの、気持ちになっていた。

確かに、偶然にではあるが、占領された日本に帰っては来たが、まさか、同胞と信じて居た祖国が、多くの満州からの引き揚げ者の引き受けを快く思って居ない事等、思いもしなかった、

なかなか上陸出来ない船内の中では帰国できた感激は薄れ、異常な日本での今後の行く末を思う時間が多くなった。

佐世保に入港しても上陸して何処に行くのか、当てもない人も多かった。故郷と思って居る場所で肉親が無事に居て呉れるのかさえも分からない現状についての不安が募って行った。

アメリカの爆撃で故郷はどうなって居るのか、全く、分からなかった。皆は上陸して引揚援護局で手続きをしない限り、日本の親類縁者に帰国して居る事を知らせる事も出来ないのである。

いろんな不安が泡沫の様に持ち上がり、不安定な空気が船内に充満し始めた。

もし、爆撃で故郷が亡くなっていたら、肉親が死んでしまって居れば、住むところは何処になるのか、日本の政治は如何なって居るのか、色々な疑問と不安が増幅し始めた。

 色々な境遇の子供達も居た。

親子とばっかり思って居た私と同じ年の女の子がポツリと言った。

「私、上陸したら捨てられるみたい」と、淋しそうに言った。

「どうして」と尋ねると「私のお母さんは満州からの引き揚げる途中で匪賊にコウリャン畑に連れ込まれてそのまま帰らなかったし、お父さんは開拓団に残ったので、そのまま、別れたキリ、今の男の人は逃亡兵でアノ女の人と夫婦になり、私がその子供になったのヨ」

との事だった。

私は其れを聞いても驚かなかった。

引き揚げて来る途中で、色々有った中での話にしか過ぎなかった。

その一端は先の「夕日沈む彼方へ」で書いたので詳しくは書かないが、彼女の話だと上陸してからのすべを、自らに知恵で克服しなければならなかった訳だった。そんな無慈悲な話は引揚の途中では山ほども有った。

 思い出せばキリがない程。

兎に角、生きて日本に帰れるなんて、夢のまた夢だったのだから。

佐世保湾内には何艘かの引き揚げ船が、係留されて居たが、ある朝、その中の1隻が居なくなって居た。

船内にコレラ菌が発見されて、コレラ患者が死ぬまで太平洋上で過ごし死亡したら港に帰って保菌検査をして検査結果が良ければ上陸出来るとの噂が流れた。

 敗戦を期に至る所でデマに遭遇したので、あまり驚きも無かったが確かに、佐世保港に着岸してコレラの検査はあったが、まだ、結果を知らされて居なかったので居なくなった引揚船の噂はデマではないかも知れないと疑心暗鬼にさせられた。

 コレラ菌の検査風景を簡単に説明すると、明日コレラの検査をする旨の連絡が船内に船長から通知があった。

当日、船の甲板に整列させられた。

白い診察着を着た老人の日本人の医者が偉そうに二人の看護婦を連れて「今からコレラ菌の検査をする、全員、船首に向って縦列縦隊で五列に整列、下半身を丸出しにして肛門が良く見える様に尻をあげろ」と号令をかけた。一人のお母さんが突然叫んだ「満州でもこんなひどい仕打ちをされた事はなかった。女と男を分けてから検査して下さい」と言ったが日本人の医者と思はしき人間が、

「コレラの検査を素早くするので命令通りに従いなさい」と無表情に、二人の看護婦に「始め!」と号令をかけた。

尻を高く持ち上げた人々の肛門に二人の看護婦の一人が缶の中に束ねたガラス棒を一本づつ、其々差し込み引き抜くと、もう一人の看護婦の缶の中に投げ入れて行った。ガラス棒の乾いた音が缶に投げ込まれる度に奇妙なこすれた音がした事を覚えて居る。私は子供としても、こんな屈辱的な扱いをうけた事は一生忘れまいと思った。

この時の医者と看護婦も自分の意志でして居るのではなく、当時のマニュアルどおりに、無表情でして居るのだとは思ったが,敗戦国日本の現状の一部を見せつけられた。

全員が終わるのに時間は掛からなかった。短時間で終わらせる為に役目としての作業だったのだと思ったが、「やはり、臭いはネーこの人達」と言ったので「ナニー!」と看護婦を睨みつけたが引揚者は皆、風呂には満州からの逃避行の折から全く入っても居ないし、船内は猛烈な悪臭が漂って居たと思う。

しかし、皆は慣れてしまって居たので何にも感じなかったが、看護婦は思わず臭いと口をついて出てしまったのだろう。

コレラ菌の検査が終了しても、なかなかその結果が知らされる事が無く、佐世保港から出て行った引揚船が戻って来る事も無く時は過ぎて行った。

突然、明日は上陸の許可が下りたとの報告があった。その晩の最後の夕食は何時もの薄汚れた雑炊とは少し違った献立だったと記憶して居る。そして、前夜祭があった。

皆は何処で着替えたのか綺麗な着物をきた引揚者の中の夫人がライトの中で ♫~はるこうろうの~♫はなのえん~~と歌い始め、皆はしんみりと聞き入って居た。

佐世保港・浦頭引揚記念資料館- (2015/06/02) の記事画像より

(因みに、今、ハウステンボスがこの地に建てられて居ると聞いた)

思えば、日本への引き揚げと言う目的で、一つの船に、乗船して、幾日も共に過ごした訳だから、邦人同士の親しい仲間が出来ると思って居たが、其れは無理だった。名前を呼び合う間柄にもならなかった。親しくなった船員さんも

「いよいよ御別れだ、内地もアチコチが空爆で町は無くなって居るし、肉親や知り合いの所在は殆ど何処に居るのか分からないままになって居る人達が多い、大人の方が上陸してガックリする人が多い、

坊やはしっかりしているから足の悪いお父さんやお母さんと弟二人を守って来た事は見て居て、良く分かったが、此れからの日本を背負って立つのは若いアンタ達だから、想像もしない大きな壁にぶつかるかも知れない。しかし、平和な日本を創るのは君達だからナ」

と、ゆっくりと話して呉れた。

「船員さんは如何するの?」と聞くと「如何なる事やら」と静かに答えた。

思えば、引揚船に偶然乗り合わせて可成りの間、共に生活した仲間達だったが、お互いに名前を言って挨拶を交わした事は無かった。

此れだけ長きに亘り生活を共に過ごせば親睦も生まれる筈だが、それは、現在の様な平和な時の旅行だったら住所、氏名を交換して中には其れが縁で末永く家族同士や個人としても付き合いが始まる切っ掛けにもなったはずなのに、名前も故郷の場所も知る事も無く別れた。

名前はお互いに言わなかったが、共に引揚者同士でもあり、殆ど同じ行動をし、同じ経験をして居たので、気を使う事なく話はしてした様に思う。しかし、日本に上陸すればどんな状態になって居るのかは全く不明なので、悲観的な話に繋がる話題にもなりかねないので上陸後の事については意識的に避けていたようにも思える。

 上陸の日、待ちに待ったはずの上陸だったが皆の顔は晴れ無かった。此れからの行く末を考えると不安ばかりが頭の中をひしめいて居たのだと思う。上陸後、軍服を着たアメリカへいから全身にDDTを振りまかれた事等は先の「夕日沈む彼方へ」で書いたが、写真の平屋の長い木造の引揚者収容所に一晩だけ宿泊し、其々が日本の各地へと散って行った。

私は引揚援護局のお姉さんから

『良く無事で日本に帰って来たわネ、もう大丈夫よ』とやさしく言われた時、何故か涙が止めどなく流れしゃくりあげて泣いて居た。

兎に角、汽車に乗った。

満州の満鉄の機関車とは比較にならぬ程小さな汽車に乗った。途中、引揚者を狙うスリや泥棒が居る中を小さく見えた汽車で佐世保を後にした。

やっと、着いたところは:其処は半農半漁の村だった。