第五章 小学校生活(その4:イジメ)
小学生同士の土地の方言での会話は満州での中国語やロシヤ語と比べれば方言での受け答えは、短時間で覚えて、土地の子供や親との会話には不自由する事は無くなった。
しかし、土地の御爺ちゃんやお祖母ちゃん達と話す時の方言は難しく、理解が出来なかった。此れは土地の子供達も理解不能の様子だった。
時々、満州で使って居た中国語とロシア語を混ぜて話して煙に巻いたりもする程、余裕も出来て来た。
満州から引き揚げて来て最初の冬を迎えた。気温などは滅多に、零下にもならないのに猛烈に寒かった。家は赤土と切り藁とを混ぜて、足で踏み粘土状にして、孟宗竹を割った3センチ幅の細長い竹板を出来るだけ長く裂いて其れを格子状に整え網状に藁で編み込んで、其の平板な網目状の縦横の長さを壁のサイズに合わせて柱に釘で打ち付け、其の竹網の上に屋外と屋内から、赤土と切り藁とを混ぜた粘土を塗り付けて乾燥させた土壁だった。土壁が経年劣化して穴が開いて居ると冬は北風が容赦なく吹き込んだ。
満州ではペチカや石炭ストーブで、壁は分厚い赤レンガで覆われ、内壁は内装用のきめの細かい綺麗なセメンで固められ、窓は二重窓だった。外はマイナス40℃でも、室内は普段着で過ごせた。
しかし、引き揚げて帰国した村の家は窓が無く障子一枚で、風が強い日に戸板の雨戸を閉める位で、部屋の中は外気温と変わらなかった。でも、引き揚げて来た冬は偶然にも、藁葺屋根からツララが、ぶら下がる程寒かった。
藁葺屋根の構造を簡単に述べると、
入口の障子戸の引き戸を右に開けると土間になって居り、土間の右側に40センチ程の厚めの板張りがあった。板張りが上がり框となり、障子戸があって、其れを開けると6畳ほどの畳部屋があり、右手に障子戸が、左手に4畳ほどの板張りの納戸があった。その納戸の横に開き戸があり、其れを開けると1畳程の板張りになって居り、便壺があった。
座って用を足すと土壁の崩れた穴から外が見えて其処から風が吹き込んだ。
8畳のタタミの間には囲炉裏が有り、ふすまで仕切られた先に10畳程のタタミの部屋が有り床の間があった。
天井は大きな松材が組み合わさり藁葺屋根の藁が煤けて見えた。納戸は押し入れが有り板戸は柿渋で磨かれて黒光りして居た。
入口の格子戸を開けて土間の左側は炊事場になって居り洗い場(流し台)は分厚い木で出来て居た。
其の天井はトタン屋根で吹き曝しだった。
魚をサバクので、生臭さが染みついて居たのか、良く蛇が寝そべって居た。
洗い場の横に釣瓶井戸があり深さは5m程で、海が近いのに塩水ではなく真水だった。釣瓶を滑車で釣り上げ水を汲むが、時々綱が切れて井戸の中に落下した。
其の度に、碇状の手鉤を放り込み、釣瓶の切れた綱に引っかけてすくい上げて修復して使った。
井戸の先に煮炊きをするオクドさんが有り、火付け用の松葉の束と、海岸から拾ってきた薪が置かれて居た。
煮炊きをする時は松葉を差し込み其の上に海岸から拾ってきた薪を置き、黄燐マッチで火を付けて鉄鍋で煮炊きをした。
少し離れた所に五右衛門風呂があり、その横に夏ミカンの木が1本有って、その横に額ほどの畑があった。
家の間取りの概略を説明したが、以後、この家で小学校生活を3年半の間程経験する事になるので、当時の家の間取りを簡単に説明した訳である。
近所の百姓家は藁葺では有ったが、立派な門構えで有り広い庭もあり、うらやましい程、広い間取りの部屋があった。
一番うらやしかったのは南向きに廊下を兼ねた縁側があり、猫が気持ちよさそうに腹を上にして寝転がっている風景だった。
何時か、アンナ家に住んでやると思って居た。
小学校の朝礼は運動場や講堂で行われた。
私は小柄で列の2番目に並んだ。未だ、戦時中の慣例が残って居て、講堂で全校生徒が集合する場合は、各学年の教室の前の廊下に2列に並び中央廊下まで進み講堂に歩調をとって集合した。
廊下と教室や講堂は全て木製で中央廊下はメイン廊下で、其れから廊下が枝分かれした廊下沿いに、其々の学年の教室や職員室が横並びに配置されて居た。
歩調を合わせて歩いて講堂に全学年が集合する時は板の廊下が心地良くしなり、ドン・ドン・ドンとリズミカルな音がした。
運動場は丘に囲まれ、段々畑となって居り芋畑になって居た。
引き揚げて来て直ぐの登校での、言葉のバリアーは徐々に無くなっては来たが、学年のボスは引揚者だと馬鹿にしては居た。
しかし、彼一人では何も出来ずに部下に嫌がらせを指示した。
ボス達は百姓の子供のグループで、3年生への編入の最初の頃は標準語を話す事を理由に生意気だと殴られた。銀シャリ(米の飯)と油粕との差では、体力的にも体格的にも及ばなかった。
兎に角、当時は小柄でもあるしチビだったので、ボスは取り巻きの子分に指示して殴ったり、蹴ったりをやらせた。
遠足の時、弁当は芋で、唯一の自慢のオヤツは干し柿だった。
ボスと話をする切っ掛けをつくる必要があった。
彼等の弁当は銀シャリに卵や魚、鶏のオカズが詰め込まれて居た。
一番の御馳走だった干し柿をプレゼントした。
ところが、彼は受け取ると直ぐに‘ペッ!’と言った後で投げ捨てた。
ショックだった。当時は卵もバナナも食べる事は出来ない貧乏な子供で、其れに比べて百姓の子は太って肌の色も良く、銀シャリ太りに立ち向かっても、負ける事は必定だ、と考えて、焦らず構える事にした。
そして、時期を見て一気に決着を付けようと考えた。其の為に彼等に対する生徒や先生達の態度を観察した。
“長いモノに巻かれろ”とは良くも言ったもので、実家が農家や漁師で無い先生は彼等に媚びる事で、家族の為に食料源を大切にする為に、異常な程、属に言う、贔屓(ひいき)が横行して居る事を知った。
子供で学校改革的な事を出来るはずも無く、今に見て居ろと学内の情勢を見守り、時が來る為のジャブを打ち続けた。
「先生は、農家の子供達のお母さん達から優しくて立派な先生だと評判ですよ」と言うと
男の先生は「そうか」女の先生からは「アラッそうなの」とまんざらでもない答えが返って来た。
イジメが始まった。
イジメられた子は、百姓でも漁師の子でも無い、父親が色々なセールスの仕事をして居る男子生徒だった。
女の子は教室の外に出された。それから、衝撃的な事が始まった。彼はズボンを脱がされ下半身を丸出しにされ、黒板消しで下半身を叩かせ、白墨の白い粉を前から股の間の中心部に向って打たれて、黒板の前に立たされて皆からの卑猥なヤジに耐えていた。
そして、両手を上に挙げさせられ教室を1周させられた。彼は涙も枯れて声だけで泣いていた。ボスのグループは更に、はやし立てて、その行為はヒートアップして行った。
妙に視線を感じた時、ボスのグループが此方を見つめて【次はお前だぞ】と暗示していた。
先生達には誰も連絡する者も居らずイジメは続いた。
イジメの切っ掛けの理由は無かった。唯、彼等の餌食になり彼等の鬱憤を晴らすための遊びだった。
身の危険は感じたが、しかし、此のイジメの経緯は突破的で予測がつかない事が分かった。
そこで、ひ弱な身体の子供が勝つためには奇襲戦法しか無いと判断した。
動物的な感覚だった。
黒板の前にグループの背の高い一人が立って此方に向って何かを言って、襲い掛かる態勢になった。其れは前のイジメの時の前段の仕打ちと同じ動作だった。
瞬間、机の蓋を取り外し叩きつけた。“ヒー”っと、言う叫びとも悲鳴ともつかぬ声がして彼は教室を飛び出して行った。
イジメのグループも其の後をおって教室から飛び出して行った。後は水をうった様に静だった。
彼は家に逃げて帰った事を知った。
当時の机や椅子は全て木製で机は蓋付の保管箱状になって居り、文房具を出し入れする為には木製の蓋が被せられ机となって居た。被せられた蓋は簡単に机の全面に向って差し込み固定する事になって居り、取り外しは簡単で便利でもあった。其れを使われるとは全く予測して居なかった様子だった。
次の日、登校するとグループを始め、教室全体が何となくぎこちない雰囲気だった。
ケガの程度を心配したが、口の上にガーゼを貼っては居たが、学校に出て来て居て、此方を向く事は無かったが大人しくして居た。
無医村でも有ったし心配したが、やはり、ホッとした。
当時は殴られて怪我をしても、親は何も言わなかった。
特に、男の子が泣いて帰って喧嘩に負けて傷を負った等と、言おうものなら、“バカたれが、泣いとらんで、やり返して来い”と云われるのが普通だった。
こんな事があって、私に対する態度がガラッと変わった。
誰も、引揚者への悪口は言わなくなった。
思えば、当時は子供同士で解決する度量を持って居る時代だった。
先生に言いつけて親を呼び出すなんて事をしたら、男の子は“臆病者”呼ばわりされて馬鹿にされるので、黙って居るのが当たり前の時代でもあった。
先生達も女の副級長から報告を受けては居たと思うが、何も言わなかった。
イジメの危険を感じ、腹にくくった戦術は終戦後の満州での満人の子供達との、喧嘩のやり方だった。当時、戦前では日本が一等国だったが、戦後は五等国と見なされ、日本人と分かると青年位の歳かっこうの中国人から取り囲まれて滅多打ちにされた。
其処から脱する為には誰が、カシラかを見定め、定めたら、彼を我武者羅に噛みついても殴ってでも怯ませて、其処を脱する事が生き伸びる術だった。
コンナ経験が役に立つとは思わなかったが、取り敢えず引揚者としての小学校での一段階はクリアーした様に思えた。
3年生になって、初めての家庭訪問があった。誰の家に行くのか
当日のスケジュールが決められ、自分の家を訪問した後は次の生徒の家まで案内する事になって居た。
訪問の大体の時間は予め分かっては居たが、なかなか先生は到着しなかった。先生の自転車が見えたが、先生は自転車を押すのが精いっぱいで、ベロベロに酔っ払って居た。
満州から引き揚げて来てからの、初めての家庭訪問でも有り、両親は食料の買い出しにも行かずに待って居た。
しかし、「お宅の息子さんは立派です・立派です」と言って「何も
申し上げる事はありません、それでは失礼します」と言って、1日掛で訪問して生徒の家から貰った‘おみあげ’を乗せた自転車を押して
帰って行った。
先生は家庭訪問先で‘たらふく’飲んでご機嫌だった。
「頑張れよ、明日また会うまでは・・」とか‘ろれつ’の回らない事を言って、自転車を大事そうに押しながら帰って行った。
イジメの顛末を話して行くものと覚悟をして居たが、全く無かった。
今にして思えば良き時代だった。とも思う
ところで、噂は鐘の音が響く範囲の狭い村だから、アッと言う間に広がっている様子だった。
近所のお爺さんが心配そうな顔つきで、
「満州からの引き揚げて来た子供はお前の事か?」と方言でやさしく話しかけて呉れた。御爺さんの言って居る事が初めはサッパリ何を言って居るのか全く分からなかったが、御爺さんは赤銅色に焼けた身体をして痩せては居たが矍鑠(かくしゃく)として居た。
「俺の息子は兵隊に行って、未だ、帰って来ん」とショボツク目に
涙を貯めながらはっきりとした方言で話しかけて呉れた。
私は一気に喋った
「満州は関東軍が殆どだったけれど、中には九州出身の兵隊さんも居たけれど、サイパンで玉砕したと聞いているよ、その人の髪の毛と爪を預かり、引き揚げて来て紙に書いて呉れた住所に送ったけれど、何の返事も無いので熊本出身の少尉さんだったが髪の毛と爪が付いたかどうかは分からないよ。後に、九州以外の福島や広島の兵隊さん達の爪や髪の毛も送ったが返事が無いよ」
「そうか、ヨカコトシテアゲンサッタナー」と、優しい眼差しで言って呉れた。
「ワイの息子は # & 〆 〇 ∞°÷<>∴〃仝・・・・ 」
と感情をあらわにして話はして呉れたが、何を言って居るのかサッパリ分からなかった。
何回も聞き返し、尋ねると「陸軍の兵隊で満州方面ではナカゴトある、南方の部隊に配属になって、其れもどこらへんか分からんが、海バ眺めとるとひょっこり帰って来るのじゃナカカと思うバッテ、もうあきらめたバイ、お前みたいなオサナゴがよう無事で帰国シンサアッタナー」と言って呉れた。
「また、來るケン」と言うと「オー待っトウゾ コマカクセニ肝のスワトウゴトアル、コーマカクセニ喧嘩もツヨカトカ」と言った。
鐘の音が届く範囲の噂話はその日のうちに知れ渡る。との喩えは確かだった。