第二章 小学校生活(その1)

帰国してからの小学校への編入は満州での国民学校の延長で考えると戦後1年間の空白がある為に4年生に編入の筈だったのが、秋の終わり頃に村立小学校の3年生に中途編入させられた。

3月生まれで有った事でも有り、1学年の差は全く感じる事無く何の違和感も、感じ無かった。

其の後、当時の村は無くなり合併して村立から町立となり、やがて、再合併して所属して居た郡も市となり、当時の複数の村立の小学校は合併して市立小学校となり、現在は昔の校舎も運動場も無くなっている。

従って、小学校生活は70年前の事ではあるが、私が入学して6年生までの僅か3年半の間の出来事である。

しかし、其の間、政治、経済や教育環境の変化は年単位では無く、月単位で変化したものもあった。

例えば、引揚時に乗った木炭バスの運賃も5銭から10銭、25銭、50銭・・・へと、急速に高額になって行った。

農地改革の中途でもあり、昔の庄屋制度も未だ続いて居た時期でもあり、小作農家との差別はまだ色々とあった様子で、其れが農家の子供達の間の差別に繋がり、学校生活の中でも其れは表れて居た。 教育を含めて戦後日本の激動の時期でも有り、3年と僅かの期間での半農半漁の村の小学校生活だったが可成り変化に富んだ生活だった。

最初の登校日に眼にしたのは国民学校の看板が外されたまま放置されて新しい小学校の新しい木製の看板が掛け換えられて居たのが印象として残って居る。

満州の開源国民学校 最後列右端が私

この村での引揚者は私達だけだった。

満州の開源国民学校は写真に見られる様に赤レンガ造りで全て二重窓の瀟洒な建物だった。国民学校当時の私は早生まれのせいでもあったが、非常に小柄な男の子だった。

引き揚げて編入した村立小学校は満州の学校と比較して、子供心にも何とみすぼらしい木造の校舎だと映った。

とは言え、小学校生活が始まった。

初めは物珍しさもあり、なかなか会話を交わす事も少なかったのだが、実際に会話をするにも方言が分からず話も出来なかった。

「ワンズワ、ドゲンシテ、ココニキタトヤ」

(君はどうして、此処に来たのか)

「満州から引き揚げて来たんだよ」

「マンシュウチャ、ドコノコツカ」

(満州とは何処の事か)

イントネーションも全く違っての対応だった。

後に、地元の方言にも慣れて、方言での問いに方言で答える様になるのは早かった。

最初は満州での終戦後の中国語の会話や、ロシア語の会話を必要に合わせて喋る事が出来たのと比較しても、土地の方言は日本語の中での会話だから、中国語やロシヤ語よりも可成り早い時期に方言での会話が出来る様にはなった。

兎に角、満州では方言を使わず標準語での会話が原則だったので、村の小学校では、こいつは何様と思って居るのかと、上から目線での転校生に思われて

「バサラ、ヨカトコノガキンゴトシヨウバッテン、ワンズワエラカツカ」

(すごく、良いとこの子供の様に振る舞っては居るが、お前は偉いのか)

つまり、満州で使って居た標準語を使う事で、何処かの坊ちゃんの様に思われた訳である。

「あんまり、キッドットウト、クラシアグルゾ」

(あんまり、偉そうにすると、殴りつけるぞ)

等の会話が交わされ、唇が切れるような鉄拳を受けた。

瞬間的に方言を捲くし立てられ、殴られるので、方言との戦いは可成りの間、色々な面で続いた。

しかし、学校生活に慣れるには大して時間は掛からなかった。登校は原則、裸足だった、雨の日の泥道を歩く時指の間からニュリニュル・ニュリニュルと粘土が出て来る時の気持ち悪さは嫌だったが慣れて来た。草履から下駄に変化するまでには可成りの時間がかかった。ゴム製のズックになるのは小学校を卒業してからだと記憶して居る。

クラスは2クラス有り凡そ30~40人の1組と2組に分けられていた。

 1組の先生も2組の先生も男の先生だった。先ずは、1組の生徒となった。どちらの組も男女共学で女子と男子は大よそ半々だった。

半農半漁の村だったので、農家の子と漁師の子に大別された。それ以外の職種はホンの一握りだった。勿論、無医村だった。

 村の町中の建物は小学校・村役場・郵便局は板張りで屋根は瓦葺きだったが、農村漁村は殆ど藁葺屋根で土壁の家屋だった。

 詳しくは後々、書いて行く事となるが、山は海抜、約350メートル程で其の裾野までは色々な雑木林があり、松原になって、その先の白砂の海岸までの間に、僅かな田んぼと畑が点在して居る村だった。詳しくは後々、書いて行く事となるが、山は海抜、約350メートル程で其の裾野までは色々な雑木林があり、松原になって、その先の白砂の海岸までの間に、僅かな田んぼと畑が点在して居る村だった。

          新京のメインストリート

 村の商店街は幅20メートル幅の土の道路の両サイドに数百メートルの間に木造の役場・消防署・郵便局・小学校が中央にあり、材木屋・大工小屋・風呂屋・雑貨商店が混在して居た。

役場・消防署・郵便局側の裏は砂浜が続き適当な間隔で満潮時には水没する浪けし堤防があり、木造の漁船が海からの人力による木製の巻き上げで浜辺の海際に係留されて居た。

写真で示した新京のメインストリートとは比べ物にならない環境だった。

浜には殆どが木製の帆掛け船で艪で漕ぐ伝馬船の大型・小型が舳先を海に向って揃えて並んで居た。スクリューを廻すポンポン船が登場するのは未だ後の事である。

 祖父の家は農家では無いので、田畑は持って居らず両隣りは百姓と漁師だったが、野菜、穀類は勿論全く譲っては呉れなかった。後に、田植えや稲刈りには手伝いをして、少しの芋を其の報酬として呉れたが、昼の休みには家族で牡丹餅を美味そうに食べては居たが分けては呉れなかった。漁村でさし網漁の手伝をすると雑魚や稚魚をご苦労さんと、言って快く分けて呉れた。

後に、当時の百姓と漁師についても詳しく触れるが、人の情けを感じたのは漁師の方が多かったので、小学校での友達も漁師の子供達と親しくなって行った。

食料は足の不自由な父と母が可成り離れた地域に出向き芋買いをしてリュックサックに芋を入れて帰って来るのを待った。

農家の床下には深く掘った芋の保存をする為の「芋ガマ」があり沢山の芋が年中、保管されて居た。

日本に帰れば日本人どうしだから助け合って行けるものと決めて居たが、トンダ誤算だった。

満州での日本人と引き揚げて来ての日本人とは同じ日本人とは

人間が全く別の国の人なのかと錯覚した。

こんな環境下での日本での引揚生活が始まった。

次回から、この様な環境下での、先ずは小学校生活に絡んだ話題を中心に書く事とします。