第三章 小学校生活(その2)
家から浜まで出るには細い道の片側に藁葺屋根の家がポツリ・ポツリと不定期な間隔で建って居り、道を挟んで野菜畑がひし形や長方形・正方形の50~60㎡程の面積で不規則に並んだ畠を横目に見て、石と砂で固められた2メートル幅の道を通り抜けて300m程歩くと竹林の中からザーツ・ザーツと波の音が近づいて来る。
その道が一段と高くなった所に、砂浜と畑や人家を守る防波堤の様に、浜辺に並行して幅3メートル程の小高い道にでる。
其の防波堤の様な小高い道の下を道の畠側に添って流れる小川が砂浜へと流れ込んで居た。
海の近くまで来ると海の香がした。その海の匂い(香)は年月と共に消えて行った。良く言う磯の香とは異なった独特の良い匂いだった。
浜辺に並行した道の下に小学校で大の仲良しになった勝男君と国広君の家があった。浜は綺麗できめ細やかな白砂で小高い道から左側の風景は浪消し堤防が等間隔で付き出し、その先は松林が続き白浜に打ち寄せる波は白く海は青と紺碧が海の深さによって変化して見えた。
まさに、白砂青松を彷彿とさせて居た。
一方、右側を見ると白砂の浜辺に添って緩く曲がり1キロ程の間に漁村があり、やや大きめの浪消し波止場があり、離島への船着き場となって居た。
その先の岬にはこんもりとした山があり、神社があった。神社の下は岩場となり海の干満によって色々な海藻が季節によって彩りを換えて居た。
神社が白砂と岩場を二分した先に可成り大きくて長い防波堤があり、船着き場の波止場との間が漁船の玄界灘からの荒波の防波堤を兼ねた船着き場となって居た。冬の時化の時には白波がドドンと白波を巻き上げた。
神社の岬の先端からは素晴らしい砂浜が約2キロにわたって続いて居たが、其の砂粒は大きくザラメ状の砂で玄界灘の荒波を直接受けるので、毎日、海岸線が変化し海岸の形も変わって居た。
勿論、黒松林は続いて居た。
此方の浜から見ると沖に大型の貨物船が遥かに沖の水平線の辺りに列をなして、左に、右に航行して居た。岬の内側の浜辺と区別する意味で土地の人はフカ浜と呼んで居た。
こんな素晴らしい海岸も小学校を卒業し福岡市に移り住んでから訪ねて見る毎に変化し、残念ながら、今は白砂の海岸は埋め立てられ、僅かながらに白砂青松の面影を留めては居るが、フカ浜は戦後の建設業界の船が採取し、あんなに綺麗だったザラメ状の砂は少なくなり、砂浜から岩が飛び出して居たのには驚いた。
勿論、人家も近代的にはなって居たが船溜まりの水には油が浮かび小学校時代の景色の面影は消滅した小学校と、同じく夢のまた夢の状態になって居た。
近年は出向いては居ないが、話によると海洋産業で発展して、所謂、海の新鮮な魚介類を主体にした料亭も出来て居るとの事を聞くが、昔の白砂青松のイメージを保ちたいが為に出向いて居ない。
特に、小学校時代に親友で漁師になって居た国広君と勝男君が鬼籍の人となってからは、彼等と海で泳ぎ、船で釣りに連れて行ってもらった素晴らしい思い出も、最早、消えてしまった小学校と同じ様に、消える気がして出向かなくなって、数十年になる。
話をこの様な環境の中で暮した小学校時代に戻す。
1組の担任は引き揚げ者について、可成り、偏見を持って居た事が4年生になって2組の先生と組替えがあった事で、良く分かった。
つまり、1組と2組の先生が入れ替わり生徒は其のままだった。子供達も先生が入れ替わる事に違和感を持って居たが、子供の目は鋭い面を持って居ると思った。
農家の子に対して依怙贔屓(えこひいき)をして米や農作物を分けて貰って居るので成績等も漁村の子供達と差をつけて居たので、漁村の親が許さなかった結果、組の担任を入れ換えたと言うのである。
其れは何と狭い考えかと思ったが4年生になってから、其の先生が如何に差別的な教育をして居たのかが、徐々に分かって来た。
思えば、敗戦で人身も荒廃の極致に達して居た時期でもあり、先生の批判ばかりは出来ないが、子供達の観察眼には驚いた。
後に、先生によってこんなに差がある事を知らされる事になるが後で、其の一端を話す。
授業の教科書は無く、授業は先生の独自の判断での授業だった。
理屈抜きに戦争は悪い、大東和戦争は多くの日本人を戦地に送り戦死させた。独裁政治が戦争を勃発させた。今からは軍国主義から民主主義になったので、人間は全て平等で身分の差は無くなったと、
繰り返し話をした。
生徒は真面目に聞いて居たが、満州での悲惨な敗戦と敗戦後の混乱を経験して居る身としては余りにも身勝手だと思った。
3年生の時の担任から、先ず、戦中の教育は全く駄目で、その責任は全て日本の軍部に有るとコトゴトク言放つ訳で、激戦地に出向きもしないで全てが時代のせいだとの民主主義の何たるかを分からずに民主主義・民主主義と逃げる姿勢は子供心にも疑いと違和感を強く感じた。
「先生、先生は戦争には行かなかったのですか」と聞いた。
教室は一瞬シーンとなった。そして、先生はジーット此方を睨み、何も言わなかった。
当時、引揚者は日本の穀潰し(ごくつぶし)と言われて居た事は知っては居たが、民主主義・民主主義と御題目の如く唱えるのには違和感を持って居た。勇気をもって手を挙げたが無視された。
そんな事があって、所謂、目を付けられる様になってしまった。
国語の教科書は国民学校のものしか無く、其れも墨で黒塗り成され何が書いて有るのか分からなかった。
算数や理科は教科書が出来て来るまでは適当に先生の選択した事柄を教えられた。
満州の国民学校での授業は何から何まで、全て軍国主義そのものであった事は「夕日沈む彼方へ」で述べたが、村立の小学校の授業は教材も無い、教科書も無い、文具も無いの、無いものづくしの小学校だった。
3年1組の先生は、この村の出身では無かったので、彼なりに苦労して居たのだと卒業後に思った事だった。当時は小学校の先生の移動は無く、その村の出身か、近隣の村からの先生で良くも悪くも、良い先生に出会えば、人生観を教えられる良い思い出を貰うが、感情的で依怙贔屓で金持ちの家庭の子の親に機嫌をとる人と出会うと、其の先生が止めるまで嫌な思いをする訳だった。
しかし、当時は小学校を卒業後、中学・高校へと進学する希望者は極僅かだった。従って、内申書なんてものには全く関心が無く、自由気ままに先生を批判し、尊敬もした。
3年1組の算数の時間は‘そろばん’だった。約半年が経ち4年生になった時点で組替えがあり、やっと、曲がりなりにも教科書が出来て、分数の計算等の一般的な授業が始まった。国語も教科書が
新たな文部省からの指定教科書が出来て、戦中の墨で塗りつぶされた教科書からは解放された。
3年1組での‘そろばん’での算数の授業では‘そろばん’を持って居ない私には暗算で臨むしかなかった。主に足し算だったので、机に数値を指書して頭に入れて足し算をした。鉛筆も紙も持って居無いので仕方が無かった。
当時の教頭先生が其れを見るに見かねてか‘そろばん’をソーっと放課後に、手渡してくれた。其れも三学期が終わり間も無く4年生になろうとする時期だった。
確かに、‘そろばん’での加減乗除は操作に慣れると便利だった。
一生懸命に練習した。
しかし、4年生になり担任の先生も代わり、教科書も配布され始め、4年生用の教科書で授業が始まったので算数の授業も‘そろばん’では無くなった。
新たに四年生の1組の担任になられたT先生は徴兵されて軍隊での兵隊の経験も有り、如何に大東亜戦争が無駄で、戦争は兵隊だけではなく多くの民間人を死に追いやったかを経験されて居り、民主主義の何たるかを戦時中の事と比較されて、小学生にも分かる様に丁寧に色々な事象を挙げ更に丁寧に説明して呉れた。
最早「先生、先生は戦争には行かなかったのですか」と手を挙げて質問する必要はなかった。
こんな事があった。
T先生から
「出張で明日は休むので、旧担任の先生が二クラス同時に授業をするので‘そろばん’を持って来て置く様に」と、その日の授業の終わり時間で言われたので‘そろばん’を持って学校に行った。
教室はざわついて居たが、指名された生徒が「ごはさんで願いましては!」と言うと、直ぐに静かになった。
始め2桁の足し算だったが直ぐに、3桁になり先生が生徒を指名し「ではっ!」で答える。正解であれば同じ解答の生徒達が「ごめいさん!」と答えて、次に進んで行く。
何故か、先生が私の方ばかり横目づかいで見て居たので、何時かあてるつもりだとは気付いていた。3桁の読み上げが早くなり「ごわさんで願いましては!」から始まり、「ではっ!」で鳥井と言われた。
答えを言うと、僅かの生徒が「ごめいさん」と答えた。先生は「ふーん」と言って私を見た。
そして、再び「ごはさんで願いましては!」から始まり2桁・3桁・4桁と続き4桁の読み上げ結果を私に求めた。
答えを言うと、生徒では無く先生が「アットウばい」と言った。
皆は一様に驚いた様子だった。
当時、農家や漁師は裕福な職業で、半農半漁で暮している家族は食料には困窮する事無く、朝昼晩食はたらふく食べて居た。
漁師は海産物を百姓は米・野菜・芋類を売り買い出来て食生活には全く困窮してなかった。また、村役場や郵便局等の公務員や神社仏閣を司る人間は何らかの形で農地田畑を持ちお互いが連携して居り引揚者等は国の厄介者でもあったが、市町村に於いても厄介者扱いだった。
先生も給料だけでは暮らして行けない時代だった。従って、家族の事を思えばオベッカを使ってでも家族の為に生きて行かなければならなかったのだと思う。
やっと、配給通帳が送付され、食料が配給されるシステムとはなったが、不定期に配給所からの連絡が入り、配給通帳を持って役場に出向くと米や麦類の配給で無く不揃いな大豆が少々配給された。今、思えば呆れるばかりだが大豆の配給と言うので出向くと、大豆から油を取った油粕だったり(現在は肥料として使用されて居る)、子供心にも日本の国はデタラメになったと思った。
朝な夕なに百姓や漁師の家の前を通ると、“おくどさん“で炊かれて居る銀飯(純粋の米だけのご飯)の香りが漂い、漁師の家からは魚の煮つけや焼き魚の香りが漂い、腹がグーグー鳴った。
勿論、子供心にも乞食の真似だけはすべきでは無いと誓っては居たが、近年、禅寺で座禅の折、修行僧が粥三昧で修業と聞くが、私としたら、単なる遊びにしか思えない。つまり、断食より酷い生活を送り続けて居た訳である。
正式名称では無いと思うが のびる・ぎしぎし・セリ・槇の木の実・桑の実・野イチゴなんでも食べた。松露は松林に出て居ると採って帰り、平鍋で炒ってむさぼり食った。味なんて感じなかった。
ただ、腹を満たすためのモノだった。浜ぼうふうもいまでは無くなり、高級料亭でのみ食されるとか、その他、セリやナヅナは当たり前で、キノコの多くも毒キノコと見分ける事が出来た。勿論、毒キノコの恐ろしさも体験した。
兎に角、日本に何のために引き揚げて来たのか分からない日々が続いた。