第二章 私が体験した満州の空襲と其の後
満州シンキョウの初めてで最後の空襲
満州シンキョウ爆撃後の日本人達
敗戦直後のシンキョウ
アパートのお婆ちゃん
満州に来て私は日本人のお年寄りに出会った事が無い
殆んどが青年男女か小さな子供づれの若い夫婦だった
日本は不当に中国を占拠して居たのだから不安定な国’満州’に老人は渡っていない
今にして思えば当たり前のことかも知れない
私は’おじいちゃん”おばあちゃん’の温かさが恋しかった
戦時中 時々おじいちゃんから”日本の海”で釣った’キスゴ’や’ふぐ’の干物が届いた
日本の香りがした
〈御礼に父はヨーカンや砂糖等を日本に贈っていた 戦後引揚げて来て分かった事だが
日本の’おじいちゃん”おばあちゃん’の所には空箱だけが送られてきたとの事だった
何時 何処で中身が抜かれてしまったのか? 戦争は人を餓鬼にする〉
敗戦後のアパートは日本人が殆ど居なくなり
日本人家族が逃避した跡に住み着いた中国人や朝鮮人達との共同生活が始まった
陳君のおばあちゃんはカイゲンの満人のおばあちゃんに良く似ていた
アパートは日本人の一家族が住むのにはかなりゆとりがあった
陳君の家族は老人夫婦と其の子供夫婦二家族と子供達で暮らす
大家族だったので狭かった
朝から晩まで大声で笑ったり 怒鳴ったり 泣いたり 泣かせたり 賑やかだった
大人は 兎も角子供達や老人に国境は無かった
私は当時 特に中国人に勇気ある子供と見なされていた様だった
“逃げなかった日本人の子供 自分達と共に住もうと思った少年”
何となく同胞扱いしてくれて居るみたいだった
ところで 今まで自分達が望んだ訳でもないのに日本人にされていた朝鮮の人々
戦後 彼等の立場は複雑だったと思う
敗戦になって 其のとたん自分たちは朝鮮人であり
日本人ではないと説明しても中国人には理解して貰えなかった
朝鮮の子供達は其のせいか 日本人や中国人以上に大人の目を気にしていた様な気がする
彼等は間も無く大陸の自国朝鮮へ帰国しアパートから居なくなった
ある日 陳君のおばあちゃんが私を呼んだ「ショウハイ ライライ」
暖かいもち粟のおかゆを食べさせてくれた
満州のカイゲンのおばあちゃんの味と一緒だ
陳君もおかゆを食べながら「日本の富士山を何時か私と一緒に見たい」と言った
おばあちゃんも「私も生きている内に一度富士山を見てみたい」と言った
日本軍にはかなりひどい仕打ちを受けただろうに
心の広い人達だなと思った