第七章 小学校生活(その6 石鹸を売って誤解を招く)
4年生になって担任が替わった。
3年生の時の先生と比較して、全てが異なった先生だった。
子供心にも色々な面でコンナにも異なった先生が居るのかと思う程違って居た。生徒の間でも3年生の時の担任は子供の家庭の状況によって贔屓をする先生だとの、もっぱらの噂の人だった。大した問題では無いと思って居たが、確かに、其れは担任が替わってから良く分かった。
3年生の時の担任は確かに生徒への対応が偏った面はあったと思うが、其れは戦争中の教育の有り方を敗戦になっても幾らか引きずって居たのだろう位にしか思はなかった。
しかし、皆は1年生の時からの経験をもとにした事柄の蓄積であり、同級生からだけでは無く、先輩からも聞いた意見でもあった。
また、生徒達は色々な体験を通して、子供なりの、鋭い観察をして其々の先生方の有り様を的確に分析し、そして、判断をして居た。
クラス替えで担任が誰に決まるかは生徒達にとって、大変な事の一つの様だった。
当時、親の口から出る説教のセリフの一つに「ソゲン事シヨット、先生に云い付けるケンネ」と言う言葉が有ったが、其れは子供達にとって大いに効果があった。それだけ、当時の先生方の挙動は子供達にとっては脅威で威厳があった訳である。
現在の様に、親が大学を出ている訳でも無く、大学や専門学校を出た教師に対する尊敬の念は異常に強く、子供達も将来何になりたいかと問われると「学校の先生」と答える子供達が多かった。
従って、良くも悪くも先生達の一挙手一投足に目を光らせていた。
4年生になって担任になったT先生は、穏やかで、学内の色々な事にも精通して居た。どの生徒にも平等に接して呉れて、怒る時は事の起こりと内容を把握し、的確な説教をされたので、生徒達も贔屓をする先生では無いと分かって居たので、T先生に誰も不満を持つ生徒は居無かった。
結果、尊敬するT先生は5年生から6年生まで担任をして頂く事となった。つまり、4年生から卒業まで、3年間にわたって担任だった事は私にとって素晴らしい財産となった。
後に、私が思いがけなく、高専の教員になった時、小学校の担任T先生の教育理念が如何に大切である事であるかが、分かった。
T先生の慈愛に満ちた教育の態度が如何に素晴らしく難しい事であったかを知った。つまり、時には厳しい指導をして恨まれ、憎まれても何れかの時にその意味が分かる指導方法は難しい事だった。
T先生に接して居た3年間の交流は小学校を卒業後もその体験は私に大きな影響を与えて呉れた。先生を真似て出来る事では無く、遠く及ばない事ではあったが、其の後、T先生の教育精神に対しては深く感銘受け続け今に至って居る。
三つ子の魂百までと言うが、小学校でのT先生との出会いは忘れ得ぬ大切な思い出となった。
小学校・中学校・高等学校・大学と初等中等高等教育機関で素晴らしい先生や恩師にも出会ったが、今、思えばT先生との出会いが、教育について、教育とは何か!等と大上段に振りかぶるものでは無く、その大切さを先生の背中を見ながら、自然体で教えを授けて居たのだと思う。
T先生から1学期も終わりに近づいた夏休みの前に、職員室に来るようにと小使いさん(学校用務員)から連絡があった。
夏休み前の職員室は焼き魚の香ばしい香りが漂っていた。先生達が焼き魚を頬張りながら、団扇で涼みながら談笑して居た。
T先生の机に行くと、「明日は宿直だから泊まるつもりで、6時頃宿直室に来ないか」と、尋ねられた。
突然の事だった。
「夕方は蒔き拾いと、漁方の手伝いで伝馬船での仕事が有り、雑穀の油粕を碾き臼で粉にして、伝馬船での手伝い賃として貰った雑魚を奥戸さんで焚きあげるのに時間がかかるので、9時頃だったら来れます」と言うと、「そーか、悪かったな、無理をしないで来れる様だったら来ないか、職員室で話す事も出来ないし、わざわざ、家庭訪問をしての話では無いし、またの機会にしよう」
と言われた。
「分かりました、遅くなりますが宿直室に出向きます」
「そうか、無理をしないでナ」とT先生が答えた。
それから、浜に行き伝馬船を巻き上げ、クサビやエイなどの雑魚を貰って帰り、家の奥戸さんに鉄の網を固定し、松葉に板状の黄燐マッチで火を付け、網の上の魚を何時もの様に鉄箸でまんべんなく焼いた、醤油や味噌は無かったが、汲んで来た海水にさらして焼くと良い塩加減になった。この方法は自分で編みだした方法だった。
終戦後、砂糖は勿論なく、塩も無かった。百姓では自家味噌を創って居た。勿論、貧乏人の引き揚げ者に対しての恵など、全く感じられなかった。
しかし、其の経緯は後々に触れるとして、4年生で音楽会の指揮者、5年生で応援団長、卒業前の6年生の時には運動会で校長先生の隣の席に座り、生徒達に指示を出すリーダー(今で言う生徒会長)になって居た。
引揚者として侮蔑して居た贔屓先生達も蔭では色々と言って居たが、私に面と向って理不尽な事は言う事もする事も出来なくなって行った。
自慢話にはしたくは無いが、‘頑張ったんだな’と思う様にもなって居た。その切っ掛けがT先生との出会いだった。
T先生の宿直の日に話を戻す。
「こんばんは」と宿直室のガラス引き戸を開けると、
「オーウ 来たか、上がって来い」と障子戸の向こうから声が掛かった。
6畳の部屋の襖の前にある机に頬杖をして此方を見ていた。
T先生は満州からの引き揚げ当時の模様や、引き上げ後の生活について色々と尋ねられてから「お父さんから私と話した事について何か聞いたか?」と尋ねられた。「いいえ」と答えると「やっぱりナー」
と言って、少し間をおいて「お父さんとしても、話そうとしても考えたのだが話そびれて居られるのだろうと思うよ」と言われた。
可成りの沈黙が有ってから「私から話そう」と、意を決した顔つきになられた。
「お父さんには、君が余りにも大人びて振る舞って居り、子供らしさが全く無い、つまり大人びて子供らしさが一カケラもない、このままでは、将来取り返しがつかなくなると申し上げた」そこで一呼吸して続けられた。
「満州の引き揚げ時期についても終戦直後のチャンスの時に引き揚げなかったが、長男に相談すると、“今更、ドタバタしても死ぬ時は一緒、もう少し落ち着いて”と云われて、引げ揚る事はしなかったが
それから間も無く、其の時、日本に向って引き揚げた人達は殆ど、匪賊に襲われて略奪され、殺され、殆ど日本に戻れなかった。詳しい事情を、生き残った人達から聞かされ、当時、我々の家族が残るのだったら私等も残ると言って、残留した家族から感謝された。それ以降、息子には頭が上がらず、引き揚げて来ても私の姉の“4人のみなし子”の盾になって呉れて居る事も知って居る。私は縁あって今、福岡の行政管理庁に勤める事となり、三男を連れて下宿生活をして居る。長男としては色々と無理難題を押し付けて居る事も分かっては居るが今しばらく待って欲しい」と父親が言った事を話して呉れた。
「T先生、分かりました。色々と御心配をお掛けしました」と答えると。「やっぱり、出過ぎた事をしてしまった」と言われた。
御礼を述べて宿直室を後にした時のT先生は何故かガックリ肩を落とされて居る様に思えた。
夏休みが始まり、其の中日に学校に出向くと女の先生から呼び止められた。そして「T先生がどうして君を宿直室にお呼びになったか分かった?」と言われたので「ハイ分かって居ます」と簡潔に答えると、「その調子では本当に分かって無いわネー」と言われて話を続けられた。
「T先生は君の担任になる時、引き揚げ者の事について何人かの先生達と話をしてその実態について調べて、満州からの引き揚げ者にも引き上げ時期によって帰国できない程、悲惨な目に遭った事等が分かり、未だこの村には引揚者が居ないのでその実態が分からないが君の態度を見て居ると、まるで、子供で有りながら大人じみていて今のままだと大事な少年期を過ごす事無くイビツナ人間になって行き、ガード下の少年達の様に世間を恨み自分勝手な理屈の下で
生活して行く人間になるのではないかと心配されて居るのヨ」と言われて顔をのぞく様に見た。
やさしい先生だった。そんな事を話し合って呉れて居たのかと思ったが「失礼します」と言った。先生は「サヨウナラ」とやさしく答えて呉れた。満州から引き揚げて来てこんなに親切に考えて居て呉れた人達が居たと思うと嬉しかった。
色々な誤解を受けて感情的になり青年団や、大地主の農家の子供達との勝ち目も無い殴り合いの喧嘩をやったり、やはり、可成りすさんで居た。
そんな中で理解しようと努めて呉れた人達が居たと言う事で救われたし、感激もした。
小学校生活(その6、石鹸を売って誤解を招く)
までには可成り書く事に成るので次回に回す事とする